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近隣の戦争遺跡
 掩体壕(エンタイゴウ)
戦争時、装備や物資・人員などを敵の攻撃から守るための施設


茂原・館山にあるのは知っていたが匝瑳市・旭市にもあるとは知らなかった!

しかもトーチカまで現存してるとは驚き!


横芝光町にも(横芝光町敬愛高校あたり)栗山飛行場があったが、戦争遺跡は無い。
爆撃で出来たといわれる池が栗山川近くにはあるが。

戦争終了間際は、国際法は無視され民間人・民間施設も無差別に攻撃対象だった。
当然、町内でもグラマンより機銃攻撃されたという人はいる。超低空飛行でパイロットと目が合ったそうだが笑っていたという・・・。

また町内にアメリカ軍機が撃墜されたのか?エンジントラブルだったのか不明だが墜落した事があったそうで、みんな竹やりを持って焼け焦げたパイロットの遺体をメッタ刺しにしたという。
戦争とはそういうものなのでしょう・・・。

戦後70年になるが横芝敬愛高校には、いまだに軍服を着た幽霊の目撃情報が後を絶たない。

横芝町史という本には、戦争当時のこんな記述もあった。

敵機の来襲と横芝飛行場

昭和十九年(一九四四)十月、米軍はレイテ島に上陸して、翌月にはマリアナ基地からの米軍機による日本本土の爆撃がはじまり、翌二十年一月にはルソン島が奪還されるに至った。

二月十六日の早朝、敵艦載機四二機が横芝飛行場(栗山)に飛来し、激しい爆撃を加えたのである(栗山村誌)。

この飛行場は昭和十三年(一九三八)五月に陸軍航空本部が横芝町・上堺村より用地一三二町三反歩を買収して建設したもので、翌十四年には陸軍の航空隊機が配置された。

同十六年(一九四一)三月には水戸陸軍飛行学校横芝分校となり、飛行学校第二中隊(内田大尉)が駐屯し、操縦学生(機上射手含む)、通信学生(無電)の教育を実施していた。

同十八年(一九四三)には仙台飛行学校横芝教育隊となった。

 

当時の規模は練習機(高練・九五式)五〇機・軽爆撃機二〇機・重爆撃機一機・偵察機三〜四機であった。
前記のように昭和二十年二月十六日の戦闘では、そのほとんどが赤トンボとよばれる練習機であったにもかかわらず、果敢にも迎撃に飛び立ったが、次々と撃墜されてしまった。
海保伍長の操縦機は機銃弾一一発を受けて、上堺村尾形地先(宮前)愛宕神社の森に墜落したが、境内の樹木に支えられ奇跡的にも命拾いした。
また佐竹中尉の一機は交戦中に空中分解し、同村尾形地先(字米名の水田中)に墜落し中尉は戦死した。
さらに大貫大尉は敵機と戦闘中炎焼したので、落下傘で脱出したが、全身火ダルマとなり同村新島地先の水田中に落下、かけつけた人々に官等級氏名をつげ死亡した。

以来、連日のように敵艦載機は栗山川の川口上空から侵入し、横芝飛行場を襲った。
B29・グラマン機の編隊が爆音高く郷土の上空に来襲し、瞬時に多数の大型爆弾を投下していった。飛行場の兵士も数人ごとに分散し、雑木林・竹林・防空壕等に身を隠すという状況であった。

米軍の爆撃機B29の編隊は、日本各地の主要都市に焼夷弾を落して民家を焼き、列車は立往生し、人々は機銃掃射を受けたのである。
千葉県では三月九日夜十時の空襲で銚子市の中枢部が灰燼に帰し、六月十日午前八時には千葉市が爆撃空襲された。
また七月六日夜半にはB29約一〇〇機が再び千葉市上空を襲い、同月十九日には銚子市が焼夷弾攻撃をうけたのである。
一方、横芝飛行場には同年四月二十九日付で航空挺身隊第一聯隊の九九四五部隊(山田少佐)が配備され、四個中隊六〇〇名が移駐してきた。




author:310, category:九十九里再発見!穴場観光, 16:29
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